表現の幅を広げる


前のページでは、良いエッセイを書くための四つのポイントの一つ目となる「論理性」を持たせるための方法として、設計図を作ることの有効性について触れました。

 

 

ここでは、ふたつめのポイントとなる「表現力」についてみていきたいと思います。

 

 

人生において、表現力は皆さんが思う以上に大事です。なぜなら、それはコミュニケーションの結果を大きく左右するからです。

 

 

日常会話レベルで、ひとつ例を挙げてみましょう。

 

職場の目の前の席にいつもイライラしながら、コツコツ机を叩いて仕事をしている女性がいるとします。そのせいでなんだか周囲の雰囲気も悪くなり、あなた自身も仕事に集中出来ません。

 

「あのー、気になるんですけど、机をコツコツ叩くのやめてもらえますか?」

 

こういう風に伝えると、相手はおそらくムッとして、あなたに対する態度を硬化させるでしょう。むしろ、逆にあなたを攻撃できるポイントを探そうとしてくるかも知れません。そうして仲が悪くなり、「あの人、あり得ない。大っ嫌い。」などと互いに言うようになるのです。本当はお互いに別に悪い人間じゃないにも関わらず。

 

「〇〇さん、お疲れ様です!いまちょっと話しかけても大丈夫ですか?」

「いいわよ」

「すみません、集中していらっしゃるところ。いつも仕事凄い集中していらっしゃるんで、なかなか声をかけられなくて。なんか、私、イライラさせるようなことしちゃってないかな、と思って。」

「そんなことないけど。どうして?」

「あ、いや、私の気にしすぎだったみたいなんで全然大丈夫なんですけど、机をたまに叩いているときになんか私が仕事の邪魔になっちゃってるのかなとか思っちゃって…」

「あらやだ、違うわよ、ごめんね、私のクセなんだよね。気を付けるね。」

「いや、こちらこそ余計なこと気にしちゃってごめんなさい!今度、よければ一緒にランチとかどうですか?」

「いいね、今日とか行く?」

「ホントですか?行きましょう!」

 

学校で学ぶ表現力とは異なりますが、これは立派なコミュニケ―ションにおける表現力です。結果として、相手に嫌われることなく、相手の気づいていないクセを指摘してあげて、同時に距離を縮めています。このように、人の気持ちがわかる人というのは、「自分を下げながら、相手に敬意を持って接することで相手を動かす」ということを自然にやっています。逆に、「自分を上げるために相手を下げようとする」人は持ち上げられることを好む人で、知らず知らずのうちに周囲に踊らされてしまいやすい人です。

 

ふだんから、このようにきちんと相手を立てるコミュニケーション表現が出来ている人なら、おそらくあなたはコミュニケーションに高い自信をお持ちの方でしょう。あなたに自信がなければ、必要な場面で低姿勢を取る余裕は生まれませんし、相手から動かされる経験よりも相手を動かす経験をし続けてきているに違いないからです。このような心理的な強さから来るコミュニケーション表現は、対人関係をはじめ、人生においてやれることの可能性を無限大に広げてくれます。

 

 

別の例として、デート中の会話を取り上げてみましょう。

 

気になる相手とドライブをしています。何か会話のネタが欲しいのですが、会話が続かず、あなたはネタを探しています。トンネルを抜けると、高台から見下ろす坂の向こうに真っ青な海が広がっていました。そこで、あなたは聞きます。

 

「海ってよく行きますか?」

 

相手はなんと答えるでしょう?

 

「いや、別によくは行かないですけど。」

 

この時点で、相手との会話にはスパークがなく、会話のケミストリーは死んでいるのです。なぜか?相手の心の中では、このように考えるからです。

 

「その質問尋ねて、どうしたいの?」

 

この質問に欠けているのは、下記の四つです。

 

必然性:なぜ今、この質問をする必要があるのか?それは私を知るために必要な情報なのか?

連続性:どういう自然な流れの中で、この会話をしているのか?

娯楽性:この質問に答えたら、会話はどう楽しくなるのか?

共感性:相手の気持ちに寄り添っているか?

 

では、どのように会話すれば自然になるのでしょうか?

 

「あ、海が見えますね!」

 「ほんとだ!」

「キレイじゃないですか?晴れた日に海を見に行くって最高ですよね。」

 「ほんとにー!海なんて久しぶり。」

「そうなんですね、僕もですよ。一年ぶりかなあ。」

 「けっこう最近じゃないですか?」

「え?そうかな?僕、昔海の近くに住んでたから、海に一年行かないなんて考えられなかったですよ。」

 「そうなんですか?どこに住んでたんですか?」

「太平洋の近くの田舎の町ですよ。なんにもないから、海ばっかり行って。なんか嫌なことがあっても、ずっと海見てたら忘れられたんですよね。」

 「わかるかも、海の前じゃ自分の悩みなんてちっぽけですよね。」

「ほんと、そう。あ、こんどよければ、自分の生まれ育った町に行ってみません?すっごい綺麗な眺めが見られる場所があって。そこで海を見て、それから近くのラーメン屋さんですごい美味しいハマグリ出汁のラーメンを食べるのが最高な贅沢なんですよ!地味ですけど(笑)」

 「それ、いい!ぜひ連れて行って下さい♪」

 

何気ない会話ですが、前者の会話と違い、相手の気持ちや思考の動きに寄り添った会話になっているから、相手はあなたと会話していてテンションも上がるし、心を開いてくれるのです。こういう自然な会話が出来ると出来ないでは、一度のデートで着拒になるか、そのままお付き合いに至るか、コミュニケーションの結果に雲泥の差が出ます。

 

 

最後に、もう一つだけ例を挙げてみましょう。エッセイの Tips なので、書き言葉の表現について見てみましょうか。例えば、先週会った出来事について書いたエッセイとします。

 

ーー例文①ーー

コロナで大学時代の親友が仕事を失った。二年前に結婚式を挙げた奧さんとの間のお子さんが最近生まれたばかりで、「人生いろいろあるもの」とは言うけれど、あまりに可哀そうだ。いまは早くこの状況が収束することを祈るばかりだ。

ーーー

 

ありがちですよね。別に悪くはないですが、得られる反応としては、「えー、可哀そう。大変な思いをしている人たちは大変だよね。早く終わってほしいねー」というなんの生産性もない共感ワードを引き出すだけでしょう。

 

また、友人本人が仮にあなたの文章を読んだとしたら、どのように感じるでしょうか?イラっとすると思います。「可哀そう」というのは当事者にとっては上から目線に感じられますし、「祈るばかりだ」と言われたところで、他人事としかとらえていないのは明白で、むしろ自分のリアルにきつい境遇を話のネタに使われただけと感じさせてしまいます。

 

上記の文章には下記が欠けているから、誰にも伝わらないのです。

 

・真摯さ:ただのネタとしてしか扱われておらず、親友の状況や痛みへの真摯さ、敬意に欠ける。

・客観性:主観的な言葉の使い方になってしまっており、読み手が気持ちを重ねにくい。

・普遍的展開:個別の案件のみで完結してしまっており、普遍的な問題として展開されていない。

・背景の説明:事象の背景説明がないから、ひとつひとつの出来事や情報に奥行や深みがない。

・著者自身の主張:ただの感想文になってしまっており、著者自身の想いや主張に欠ける。

 

では、どのように表現しなおすことができるでしょうか?

 

ーー例文②ーー

世界を駆け巡るコロナショック。特に仕事を失うこともなく、健康状態も良好な私にとって、当初はニュースの中だけの出来事のようにも感じられていたけれど、まったくの他人事というわけでもなかったようだ。大学時代の親友が仕事を失ったのだ。彼はとても優秀で、卒業後は華やかなホテル業界に身を投じた。しかし、コロナショックに起因するインバウンド旅行客の激減、国内旅行客の激減という二つの負の要因により、彼の働いていたホテル業界は直接的な打撃を受けた。彼のホテルも例外ではなく、今年の8月に売却が決まり、従業員は全員リストラになった。二年前の夏、結婚式で見た彼と奧さんは未来に向かって輝いていた。二人の間にはつい最近お子さんが生まれたばかりで、「人生いろいろあるもの」とは言っても、あまりにも不憫に想えてしまう。彼はまだ若いし優秀なので、次に活躍できる場所を見つけることは難なく出来るだろうけれど、このご時世ではなかなか新しい仕事が見つからない失職者も多いはずだ。私たちに出来ることは、果たしてこの状況の一刻も早い収束を祈ることだけなのだろうか?

ーーー

 

まったく異なる伝わり方になっていると思います。きちんと読み手が「うん、うん、うん」と共感しながら読み進められるように構成されていることで客観性が担保され、かつ彼以外の失職者に触れることで普遍的な展開がなされており、コロナショックと、ホテル業界に起きたこと、そして親友の職場に起きたことの具体的な背景が示されていることで、読み手が受ける情報にぐっと深みが増しています。そして、読者に問いかける最後の一文からは、著者自身が他人事ではなく、自分事として現状に対する問題意識を持っていることが伝わってきます。そして何より、親友本人を単なる「可哀そうな人」として扱わず、「敬意」を持って向き合っていることがわかります。

 

 

以上、三つの例を見てみました。

 

これらの表現を使うことは難しいことではなく、「真摯さ」「敬意」「想像力」さえあれば自然に出来ます。つまり、スキル以上に、読み手、または物語の登場人物の気持ちになって、彼らに敬意を示し、優しく真摯に伝えようとする心構えこそが力強い表現力を生むと私は考えています。

 

例えば、相手に敬意を持っていれば、建前でゆがませるのではなく、言いたいことはきちんと本音でまっすぐ相手に伝えようとしますよね?また、それがうまく相手に伝わらなければ、想像力を使って相手の気持ちをより深く汲み取り、そこに寄り添うような伝え方をしようとします。それが表現への真摯さであり、相手に対する敬意です。そして、その根本にあるのは、本音と本気で生きる強い心に他なりません。

 

難しい言葉や、美辞麗句が並んでいれば素晴らしい表現なのではなく、仮に使っている言葉は小学生レベルであったとしても、人の心を打つ表現というものはあるものです。その意味で、「表現力を磨く」というのは「言葉を覚える」ことではなく、自分を大切にするのと同じように他人への愛情と関心を持ち、想像力と敬意を持って向き合うことで自分自身の心を磨くことそのものと言っても過言ではないでしょう。